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湘南ストリームライン

 
SL-2(04形)
■基本性能(デビュー当時)
編成:0411(cmPC)+0461(ctG)
重量:23.3t+20.5t
モータ出力:MB-98(75キロワット)×4/両 ギア比:2.85(つりかけ)
制御器:HBF-104-15VDH(1C4M)
ブレーキ方式:SME(応荷重装置なし)
加速力:34キロまで1.6キロ/秒
減速力:常用3.5キロ/秒 非常3.5キロ/秒 最高速度:65キロ

600ボルト時代のSL-2。正面窓は3枚非貫通というスタイリングを採用。これはデザイン上の問題よりも、大きなガラスが入手しづらいという事情がありました。
 

戦時輸送のロマンスカー
 SL-2(04形)は戦時中の1944年に登場しました。すでに物資は窮乏し、満足な工作部品が入手困難となっている中、手をつくしストリームラインにふさわしい電車として可能な限り手を入れています。鋼板は資材不足のため1.6ミリ厚の薄いものを使用。溶接工の確保が難しかったのでリベット止めと、SL-1に比べダウングレードとなった部分もありますが、どこから調達してきたのか座席にはモケットが貼られ、質は今一つとはいえ座面にはゆったりしていました。軸受けもベアリング入りのコロ軸受で走行性能を向上するなど、後に車両部長が会社から糾弾されるほどの、とても贅沢な電車になっていました。
 正面は簡素ながら、運転台部分を傾斜させて「流線型」の伝統を守ります。これは運転台仕切りがHポールしかない当時の電車では、夜間運転の際前方視界が悪くなるため、窓ガラスを10°傾斜させて写り込みを防ぐという名目ですが、ストリームラインのフラッグシップは流線型でなくてはならないという気持ちがあったためとも言われています。
 インテリアも「資材節約」という名目からさまざまな贅沢が施されています。天井は資材節約のため天板がなく、樽木が露出した状態ですが、その樽木も資材節約のため肉抜きが施されています。たまたまそれが蝶や花の模様に見えるかもしれませんが、あくまでも軽量化と資材節約の一環として行われたことになっています。また、むき出しの天井には照明をつける余地がなく、やむをえず荷棚上部から天井方向にライトを設置し、天井をクリーム色に塗って間接照明としています。これも贅沢な雰囲気を醸し出すためではなく、少ない明かりで最大限の効果を出すための「戦時設計」ということになっていますが、当時の仕様書を読むと「此をヴォウルト天井と云ひ、落ち着き有る高級空間を演出す」とありますので、やはり通勤ロマンスカーを作りたかった想いが込められているものと推測されます。

低速に強いMB98モータを4基搭載し、中間に83形のTを挟んでストリームライン最大の難所である辻堂クロス(40パーミル)を上る04形。時節柄、ロマンスカー的な性能は設定できず、農耕馬のように力強い走りとなっていました。

 窓は四隅を丸く縁取りし、薄板でもねじれ剛性を確保。座席はクッションの効いたビロード貼りのもの。その柔らかなかけ心地は現在のSL-7すら凌駕するものだったと言われています。金属が軒並み回収されたこの時代、座席は板張りが常識でしたが、ストリームラインでは木枠の間に鞣したベロアで編んだ縄を格子状に組んでクッションとしたのでした。
 このようにSL-2は体裁こそ戦時設計車でしたが「遊びにはことのほか情熱を傾ける」ストリームラインの性か、それとも設計者のロマンス指向がそうさせたのかはわかりませんが、東京急行電鉄の首脳陣が激怒する程度には「刺激的なクルマ」ではありました。

低速重視ではあっても汎用性のあるセッティング 
 華美なボディのわりに走行装置は目立ちませんが、14メートル級のボディには十分すぎるパワーのMB-98モータを4台装備。ギア比は2.85ですが軸受けをコロ軸受けと、低速で大トルクを発生できるMB-98モータのおかげで1M2T運転も可能な性能となりました。この時期によくベアリングが入手できたものだと思います。
 制御器は直列8段、並列4段、65%弱め界磁1段のHBF-104-15VDH。型番からわかるように1500ボルトに対応した制御器で発電ブレーキ付きでした。この時期にはまだ昇圧は計画されておらず、なぜ1500ボルト対応の制御機を搭載したのかは謎ですが、1968年の昇圧の際にはたいへん役立ったことは間違いありません。なお、制御器はHB制御単位スイッチ方式なので引き出しは極めて良好でした。
 SL-2は1945年までに7編成14両が製造。さすがにこれ以上はベアリングが入手できず、簡易設計の05形に製造が移ってしまいます。

1500ボルト昇圧後もSL-2は14両すべてが昇圧改造を受け、普通電車や急行を中心に活躍。とくに晩年は急行の増結車としての活躍が印象に残っています。

 SL-2は中間に83形から抜き取ったtを組み込んだ1M2T運転(tを抜かれた83形のドアが非連動になっちまいますが、四の五のいってられない世相でした)で大船へ産業戦士を送り込む大役を果たし、横浜空襲でも奇跡的に全車両が平塚寄りを走っていたため14両全車が被災せず(そもそもこの時期は、直通区間で4線レールは贅沢と言うことで標準軌の線路を供出していたため、市電直通が中止されていました)、終戦後は2モータ運転など修理もままならないなか、混乱輸送を支えてくれました。
 1952年に04形はSL-2を襲名しましたが、SL-2はSLシリーズのなかで唯一特急運用に就いたことのない車両です。生まれが戦中で特急の設定自体がなく、戦後特急の復活の際にはSL-3が登場していたためですが、戦中の非常に緊迫した世相においても、ストリームラインとしての意地を張った04形です。特急運用についていようがいまいが、04形はストリームライナーの精神性を持った、SLシリーズに相応しい車両なのです。

オールマイティに使えたSC-2
 SL-2は特急を補佐する急行を中心に、83形をバラしたMMT編成で活躍したり、昇圧後も制御機をジャンパひとつで1500ボルト対応にできたため、昇圧即応車として重宝され、昇圧後も出力不足ぎみな190形のブースターとなり、朝の急行を中心に活躍しました。
 このように、ストリームラインの躍進期を支えたSL-2ですが、やはり老朽化はいかんともしがたく、1973年に700形が登場すると入れ代わりで廃車が進みましたが、7編成すべてが引退したのは1975年。かなり使いやすい車両だったことがわかります。しかもct1両は鵠沼車庫にしばらく保管された後、ブレーキをHSCに改造されて1980年から1年ほど、SL-4に編入されていた時代があります。しかしこの編成もSL-5が登場し始めた1982年には解消。このctは保存も検討されましたが老朽化が著しく、残念ながら全車両解体され現存しません。

1975年に全車両が「引退」したSL-2ですが、実はct1両がHSCに改造され、SL-4のctに1年ほど編入されていた時期があります。編成替えで余ったSL-4と組んで、小磯線にも冷房サービスを提供するためでした。しかしこれは一時的なもので、SC-5がある程度増えた1982年に解消されました。
 

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