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湘南ストリームライン

 
83形
■基本性能
編成:8301(cmP)+8351(tS)+8302(cmP)
重量:23.0+19.5+23.0
モータ出力:MB-127(37.5キロワット)×2/両 ギア比:3.04(吊りかけ)
制御器:単位スイッチ方式 HLF-052-6DH
ブレーキ方式:SME(応荷重装置なし)
加速力:33キロまで1.7キロ/秒(応)
減速力:常用3.0キロ/秒 非常3.5キロ/秒 最高速度:65キロ
震災復旧車として
 1923年の関東大震災では、湘南平塚電鉄も保有車両の約半数を失うという大きな被害を受けました。しかし「移動」の需要は日に日に増大する一方で、1両でも多くの車両が必要でした。83形は急増する平塚線の輸送力増強に追い付くため、急遽三菱電機に機器を発注し、田中車両で14メートル級の木造車体を載せて作られた車両で、1925年までに30両が造られました。三菱電機と田中車両(現近畿車輛)という組み合わせは、ストリームラインが現在に至るまで普遍のものでが、そのルーツは83形にあります。なぜこの2社が選ばれたかというと、三菱電機は名古屋、田中車両は大阪に会社があり、震災を免れているからです。
 車体は全長14メートル。片側3ドアとしてラッシュ対応。幕板から上を300ミリ切り飛ばして資材節約と軽量化をかねるなど、資材不足の中可能な限り資材を節約、また非力なモータに対してできる限りの軽量化を果たしています。
 車体は鋼材が震災の影響で入手困難なため木造となりました。木造電車の強度不足による事故が社会問題となっていた中での木製車体製造は内心忸怩たるものがありましたが、しかたがありません。
 ストリームラインの歴史では、SL-1(92形)が画期的なため、83形は今ひとつ地味な存在ですが、それでも湘南平塚電鉄〜湘南ストリームラインの歴史の中で一つのキーポイントとなった車両です。
 それは、現在に続く三菱電機との関係を最初に持った車両という点です。1921年に三菱造船から独立し、鉄道車両メーカーとしての実績がほしかった三菱電機と、とにかく車両整備を勧めたい湘南平塚電鉄の思惑が一致し、震災の被害がなかった名古屋の工場より機器を輸送し、わずか1年半で30両もの車両を納品しました。このとき技術開発の時間を短縮するために三菱電機はウエスチングハウス社と技術提携を行っています。
 モータはMB172(37.5キロワット/680rpm/600ボルト)×2、制御器は今風に言うとHLF-052-6DH(直列5段並列4段弱界磁1段)。なんと65%弱め界磁、電気ブレーキ装備という意欲的なものでした。空気ブレーキはSMEで、当時の最新モードで固めていました。この組み合わせはモータこそSL-1ではMB98に変わりましたが、戦前の標準システムとして長く湘南ストリームラインになってからも使われました。

三菱電機との関係
 MB172の37.5キロワットは路面電車ならともかく、高速電車としてはかなり非力に見えます。しかも2基搭載ですからパワーなどまるで期待でそうにありませんが、これが案外使えるのです。湘南平塚電鉄が三菱電機に要求したのは「低速トルク重視」でした。今でも弘明寺〜大船間はアップダウンが激しい線形ですが、この区間での中間加速を重視するために低速のトルクを太らせることを要求したわけです。高速域はMT比を高め、弱界磁で乗り切ればよいと考えたわけです。ストップアンドゴー中心で、連続力行をしない湘南平塚電鉄ならではの考え方です。したがってギア比も3.04とたいへん低く設定されています。
 余談ですが、その後SL-1向けに納品したMB98主電動機は、ストリームラインでは満足のいく性能でしたが愛電やコトデンなど、同じ高速指向の鉄道では不評でした。これは中間加速重視のストリームラインとトップスピード重視の愛電との考え方の違いで、決してMB98が劣っているというわけではありません。

資材不足から木造で生まれた83形(絵葉書)。ただし木造でいた期間は短く、1940年には全車両の鋼体化が完了しています。
 

 閑話休題。そんなわけで単車もしくは2M1T組成で33キロまでの加速力1.7キロ/秒程度、最高速度65キロで運転できる性能をもった83形は、震災復興の大きな力となりました。低速トルクにすぐれたMB172モータをHLならではのノッチ捌きで力任せに回し、伊勢原から給水車をけん引して水道設備が復旧途上の横浜市内に水を運んだのも83形とMB172モータです。MB172は37.5キロワットという数字以上にポテンシャルの高いモータなのでした。
 台車は板枠台車を採用し、軽量化を推進。MB172モータの高速側を助ける意味で軸箱にはローラベアリングを採用するなど、お金をかけるべきところはしっかりとかけています。制御方式がHLなので、室内灯は600ボルトの架線から直列に繋いだ電球を点灯させる方式。暖房は600ボルトを直接抵抗にかけて発熱させるという乱暴なもの(おかげで調整が利きません)でしたが、ドアを自動化する際に制御電源が必要となり、T車にMGを1期吊りかけ、室内灯もMG経由で並列接続、コントローラもHLFからHBFとなりました。これにより83形はMTMの3両固定でないと運用できなくなり(まあ単車でも走れなくはありませんが、その際はドアが手動になります)ました。

MTMで快走する鋼体化後の83形。出力は小さいですが、ローギアードと弱め界磁の使用で、どうにか最高速度65キロで走れるようになりました。
 

 1938年には車体の外に鋼板を貼ったいわゆる「てんぷら鋼体化」を推進(最初の3編成のみ。重量の問題から4編成目からは全鋼製となります)。戦時中はMTMの3連で工員輸送にまい進しました。戦災で12両が廃車になったものの、残りの18両は戦後も比較的平坦な平塚線を中心に活躍しました。
 1965年、将来の市営地下鉄直通による輸送力増強に伴い1971年に架線電圧を1500ボルトへ昇圧することが決まりました。この予行練習として原宿線は一足はやく1968年に昇圧することになり、83形のうち12両を1500ボルト即応車に改造する工事が行われました。83形は端子電圧600ボルトMB172モータ×2の構成なので、2両を1組にして4モータ直並列制御とし、M+Mの2両固定編成として1コント制御としました。600ボルトの際は2モータを殺して実質1M1T、1500ボルトで本来の2Mとなる方式で、のちに昇圧即応として190形が同じやり方で造られています。
 原宿線は狭軌なので台車を本来なら振り替えなくてはなりませんが、長軸の車軸を用意して台車フレームはそのままオリジナルのものを流用。何とも不安定な台車になりましたが、原宿線の最高速度は65キロと比較的低速なので問題ないと判断されました。
 こうして原宿線で2連6本を組んだ結果、この時点でt6両は全廃。tの車体のみ平塚の海水浴場でバンガローとして使われていたのですが、1982年頃に解体されています。また、原宿線は83形で車種統一されましたが、いかんせん古い車両であることに変わりはないため、1976年より順次190形が入線して83形を置き換え、最後の1編成は1978年に引退しました。SL-1のような華やかさはないものの、1923年から55年にわたりストリームラインの輸送を支えてきた、忘れてはならない車両です。

原宿線に移籍した83形。1500ボルト化に際し1C4M永久直列とするため、2両1ユニットになっていました。1976年に190形が入線するまで、原宿線の主力として活躍しました。


SL-1やSL-3のような華やかさはなく、あまり目立たない83形でしたが、55年にわたって使われ続けたことが、何よりも使いやすい車両だったということの証です。

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