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湘南ストリームライン

 
SL-3(100形)
■基本性能(デビュー当時)
  編成:111(cMP)+702(MPC)+751(cMPG)
  重量:26.6+26.5+26.7
  モータ出力:MB-3020S(110キロワット)×4/両 ギア比:4.21(WNドライブ)
  制御器:ABFM-144-6VDH(1C4M)
  ブレーキ方式:HSC-D
  加速力:34キロまで3.0キロ/秒(混雑率100%基準)
 減速力:常用3.5キロ/秒 非常4.5キロ/秒 最高速度:120キロ(認可85キロ)
■かっこいい電車を造ろう!
 100形は1952年に登場した戦後初の新造車で、SL-3の愛称が付けられました。戦時中に造られた04形の意思を受け継ぎ「かっこよく意地を張った電車」をコンセプトとし、当時まだ復興途上にあったストリームラインに颯爽と登場した100形は沿線の旅客から大いなる喝采を浴びたと言われています。
 100形は当時の建築限界/車両限界にあわせ全長16メートル、車体幅2500ミリで造られています。cm+m+cmの3両編成で、制御方式はABFM-144-6VDH(1C4M/直列12段並列12段弱め界磁2段)、モータはMB-3020(端子電圧300ボルトで110キロワット/4,000rpm)を採用。補償巻線を装備し、弱め界磁を35%取ることで600ボルトでも4,000rpmを実現。この高回転を支えるため、駆動方式もストリームラインでは初めて(量産車両としても日本初)となるWNドライブを採用しています。なお、補助電源初めとするサービス機器は3両に分散配置しているため、600ボルト時代はこの3両編成が最低組成となります。それにしてもいくら三菱電機のバックアップがあったとはいえ、試作車を造らずいきなり量産したのだからたいしたタマだと思いますが、ビジネスと言うのはロマンやバクチで行うものではありません。実際のところ東急電鉄から独立後の小田急電鉄とストリームラインは情報を共有し、軽量高速電車のあるべき姿をお互いに話し合っていました。そして標準軌で比較的条件の良いストリームラインが、小田急電鉄のロマンスカー・SE(3000形)に先んじて完成したというわけです。小田急側は軽量車体の追求と狭軌用WNドライブの開発にずいぶん手間取ったようです。
 そもそもWNドライブは米国ではすでに地下鉄車両を中心に安定した性能を見せており、日本にそれを導入する際に発生する問題は特許料などの「政治的問題」だけで、技術的な問題はほぼクリアされていたのです。正当に特許料を支払い、工具や治具も合わせて購入すれば、スケッチ製造のような苦労は必要ないわけです。もっとも、アメリカ製の工具は日本人にはとても大きく、使いこなすのに苦労したようですが……。

赤いボディに反射防止の黒いラインで颯爽と登場したSL-3。どこの鉄道会社よりもいち早く高性能車をものにしたのは、ひとえに「かっこいい電車」に飢えていたからと言われています。また、志半ばで戦地に散った技術者のメモが、ストリームラインの連中を動かしたからだ、とも伝えられています。

 とにもかくにも三菱電機が新世代車両として全面的なバックアップを約束してくれたおかげで、価格はともかく高性能な部品をふんだんに使ったまさに新世代車両となりました。
 台車はKD-7。近畿車両謹製のシュリーレン台車です。当時路盤が貧弱だったストリームラインにはベストチョイスとも言える台車で、その滑らかな乗り心地はストリームラインがSL-6まで一貫してシュリーレン台車にこだわり続けるほどの「お気に入り」の組み合わせとなりました。
 ブレーキはSMEブレーキをもとに電磁弁を追加し、応答性を向上させたSMEE(HSC〜D)を採用。ブレーキハンドルを77度位置に操作すればたちどころなくブレーキがかかる高い減速性能は乗務員に好評を持って受け入れられました。路面区間でも電動カム式やCS-5のような空気作動式ではなく、単位スイッチ式ABFMだったので応答性はバツグン。三菱電機/ウエスチングハウスのHL(HB)になれた運転士にも好評を持って迎え入れられました。
 さて、SL-3は110キロワットモータの全車電動車編成ですが、加速力は3.0キロ/秒と控えめ。それもそのはず。ギア比は4.21とローギアードに振って高速性能を重視していました。当時の最高認可速度85キロまでは瞬く間に駆け上がる高性能は当時話題となりましたが、ストリームラインとしてはこのとき最高速度120キロを画策。何度も運輸省(当時)に申請をしましたが認可されたのは時速100キロまで。藤沢〜大船間の国鉄との併走区間で国鉄電車をごぼう抜きにされては国鉄のメンツが立たないためだなどとまことしやかな噂も流れましたが、その高速性能は誰もが認めるところにあり、弘明寺〜尾上町間の併用軌道でも横浜市電を後ろから煽る高性能ぶりを見せつけ「スピードのストリームライン復活」を力強く主張。新車発表の際にも「ストリームラインはかっこよくなければなりません」と大いにぶち上げました。
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小磯線で海水浴輸送に活躍した晩年のSL-3。収容力の問題から晩年は比較的混雑しない運用に回されましたが、走りに関しては700形はもちろん、特急に使われていたSL-4にもひけをとりませんでした。
 

■三菱電機とのおつきあい
 この強靭な足回りは、強力なモータだけでは成立しません。準張殻構造の軽量車体によりトンあたり出力をできるだけ大きくし、重心を低下させることで高速運転を可能としています。また、窓ガラスは二段窓ですが、戸袋を造らないためにつるべ式の二段窓とし、雨水の浸入による腐食防止と軽量化を果たすなどして、1両あたり30トンを切る27.5トンとしました。後にSL-4やSL-5が重装備でダイエットを余儀なくされるのを思うと実にスリムな電車ですが、そりゃあ冷房と大容量MGが載らなきゃあねえ……。
 車内設備はロングシート3ドアと、通勤需要を重視したデザインですが、通風装置には三菱電機謹製のファンデリアを装備。当時、通勤形電車には扇風機すら珍しかった時代にこれだけの設備を付けたのは、先に記したように三菱電機の全面的なバックアップ(言い換えれば新技術導入のためのモルモット/ショウルーム的な立場です)があったためです。すなわち三菱電機としては、三菱電機の設備で固めた高級な電車をアピールすることで製品のシェアアップにつなげたい意図があったとされています。このときの関係は今もつづいており、ストリームラインはSL-7、SC-4にいたる現在まで電気品はすべて三菱電機でそろえられています。
 SL-3は3連8本が用意され、8編成が揃った段階で復活した特急を中心に活躍。持ち前の高性能を生かして平塚〜尾上町間45分の俊足を誇りました。1500ボルト昇圧の際は制御器をおしどり方式で2両ユニットにして対応。3連8本を4連6本に組み替えて当時3連だった特急をサポートする急行として活躍しました。1973年に700形が製造されると、加速性能にすぐれた足回りをいかして普通電車用に転用。SC-2が本格的に量産されるまでその健脚ぶりを示しました。晩年は2両編成で小磯線・寒川線ローカルに使われましたが、軽量構造が仇となり冷房改造ができないことから1986年に引退。MB-3020形モータやKD-7台車は、補助電源機器などは800形に流用されました。そのため、ストリームラインの歴史に名を残す車両でありながら、保存車両がないのが残念なところです。
 100形の走行性能は廃車になるその日まで第一線で使える高性能かつ汎用性に富んだもの(地下鉄に入らないなら特急としても使えました)で、多くの乗務員は設計にいろいろ無理のあったSL-4よりも、SL-3に好んで乗務したという話も残っています。

画像左のSC-2が製造され、入れ替わりでSL-3は引退しました。しかし性能面では最後まで不足を感じさせず、ストリームラインのメインストリームを張ったまま引退したその姿は、若き技師が夢を見た「かっこいい電車」の生涯そのものだったといえます。

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