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湘南ストリームライン

 
SL-4(150形)
基本性能(デビュー当時)
  編成:151(cMPC)+152(MPCG)+153(cMPC)
  重量:35.0+35.0+35.0
  モータ出力:MB-3020S(125キロワット)×4/両 ギア比:4.82(WNドライブ)
  制御器:ABFM-144-15DHA(1C4M)/ABFM-148-15HDB(1C8M)
  ブレーキ方式:HSC-D
  加速力:34キロまで3.3キロ/秒(混雑率250%まで一定)
  減速力:常用4.0キロ/秒 非常4.5キロ/秒 最高速度:110キロ(認可110キロ)
 ※参考資料:SL-4編成組み替え図
ストリームラインの新世代車両
 ストリームラインは1971年まで弘明寺から尾上町まで横浜市電弘明寺線に直通していましたが、1971年12月からは横浜市営地下鉄へ直通先がかわるため、地下鉄直通が可能な新型車両が必要となりました。加えて仙石河岸〜柳島間の併用軌道が解消するのにあわせて架線電圧を600ボルトから1500ボルトに昇圧することとなり、車両の昇圧改造や新造を急ピッチで行う必要がありました。そんななかでストリームライン新世代のフラッグシップとして企画されたのがSL-4(150形)です。様々な事情によりSL-3(100形)のような優雅さには欠けていますが、ストリームラインの成長期を支えた、忘れえぬ車両です。1965年から42両が製造されました。
 車体は当時流行した角ばった形状となり、SL-3のような丸みのあるボディではなくなりました。そしてストリームラインでは初となる車体幅2,800ミリ、全長18メートルのワイドボディとなり、これまでの14〜16メートル級、車体幅2,400ミリよりも収容力が大幅にアップしました。それはいいのですが当時のストリームラインは仙石河岸〜柳島間が併用軌道で、ここは運輸省から車体幅2,400ミリ、編成長56メートルということで許可を受けていました。ところがSL-4は車体幅が広くなっているためこのままでは橋を渡ることができず、建設省とずいぶん揉めたというエピソードがあります。
 側面窓は下段固定上段加工式の2段窓。地下鉄直通用なので開口部はあまり大きくありません。その分は換気でカバーしようということでストリームラインでは初の冷房を装備することになりました。ところが後述しますがこの冷房が効果的に使えない事件が起こるのでした。
 台車はこれまたストリームラインでは初の空気ばね台車となるKD-63ベローズばねの歴史をすっとばしていきなりダイヤフラム式の空気ばね台車です。軸箱支持方式はSL-3でその走破性の高さを見せ付けたシュリーレン式。今後ストリームラインはSL-7の登場までシュリーレン台車一筋となります。


ストリームライン発の空気バネ台車となったSL-4。その乗り心地はとても滑らかで、シュリーレン台車の生産が終了するまでストリームラインではシュリーレン台車一筋でした。
 

1回限りの複電圧車
 ストリームラインは今後も増え続ける輸送需要に鑑みて、架線電圧を600ボルトから1500ボルトに昇圧することを計画しました。実施時期は仙石河岸〜柳島間の併用軌道分離工事が完了する1971年3月と決まったのですが、それまでは架線電圧600ボルトで運用するため、SL-4には複電圧機構を搭載しなくてはなりませんでした(ちなみにSC-1はチョッパ制御の論理回路を組み替えることで600/1500ボルト共用としていました)。複電圧と言っても日常頻繁に切り替えるわけではないので、できるだけ合理的なシステムでいきたいと考えていました。
 いわゆる「おしどり昇圧方式」は、1500ボルト時に2台のコントを同期させなくてはならず、保守性に難があることがわかりました。そのためメインテナンスに手間のかからない単M方式による電圧切替をすることにしました。
 まず600ボルト運転の際は直列12段、並列12段、弱め界磁4段の制御を行いますが、1500ボルト昇圧後は永久直列12段、弱め界磁4段の制御とするわけです。この方式の利点は回路がきわめて単純化することにより、メインテナンスが単純になる点ですが、欠点として1500ボルト昇圧後は制御段数が粗くなるので乗り心地に難があったり電力消費量が過大になるといった欠点が生まれます。それでもストリームラインがこの方式を選んだのは、横浜市営地下鉄の直通仕様に「毎秒3.3キロの加速力を34キロまで維持すること」という一文があり、性能上2M1T編成を組むことが許されませんでした。そして3両編成でオールMを組むには、いずれにせよ単M車が必要だったため、昇圧までは単M車のみ最低限必要な21両で賄い、1500ボルトになってから必要に応じて1C8M車の導入を再検討しようということになりました。
 SL-4の基本編成はcMCP+MCPG+cMCPの3両編成。中間車に3両分の発電をまかなえるMGを搭載していますが、それ以外は各車両にコントやCP、パンタグラフを装備しています。3両に1両の割合で中間車を組み込むという条件さえ守れば比較的自由に編成を組み替えることが可能です。モータはMB-3020(125キロワット)。低速でのトルクが重要視されたため、低回転で高トルク(そのかわりやや大きなモータですが)のMB〜3020が近畿車両から推奨されたことで選ばれました。制御器はABFM-144-15DHA。4個モータ永久直列を前提とした制御器で、ジャンパ切り替えで直並列制御も可能としています。
 ブレーキは応答性の高いHSC-D。電制をメインで使用するため、ブレーキは両抱き鋳鉄制輪子を採用できました。当初は複巻モータによる回生ブレーキも検討したのですが、複電圧仕様となると装置が複雑になるため見送らざるを得ませんでした。とはいえ永久直列制御の電気ブレーキの発熱量は半端ではなく、乗客からは「ストリームライナーではなくストーブライナーだ」と皮肉られる始末。ストリームラインの電車なのに苦情は地下鉄にいくことから横浜市交通局からも改善を強くいわれた結果、地下鉄線内は最高速度が時速70キロだし空制オンリーでも問題なかろうということで、発電ブレーキを殺して運転することとなりました。それでも加速時の発熱量は軽減しようがないので、ついにSL-4が地下線運用から撤退するまで地下鉄線内での冷房は認められませんでした。よほど苦情が腹に据えかねたのでしょう。

中間に1C8M車を挟んで5連となったSL-4。その後6連化の際にも編成替えが行われ、鵠沼工場はてんやわんやだったといいます。

1C8M車との混結
 いろいろミソはつきましたが、地下鉄直通後は大幅なスピードアップもあって旅客数はうなぎのぼりに増えていきました。直通当初は20分間隔で特急が直通していたものを、1973年には15分間隔に短縮。それでも旅客の増加に追いつかないため1977年には5両編成での運転を開始します。このとき製造された車両は2両をのぞいて中間車で、3連車に1C8M(制御器はABFM-148-15HDB)のユニットを1組組み込んだ編成が7本と、完全新造の5連1本(1C8M×2ユニット+1C4M)の陣容となりました。もはや600ボルトに戻ることはないので複電圧装置は不要。ならば効率のよい1C8Mにしようというわけです。ところが、1C8M車と1C4M車の同期をとるのがたいへん難しく(1C8M車は直並列24段、1C4M車は直列12段)、前後の大きなシェイクされるような揺れはラッシュ時に嫌われて「これではストリームライナーではなくシェイキーライナーだ」と皮肉られてしまいました。ストリームラインの沿線には皮肉屋が多くて困ります。しかも1C8M車が2組+1C4M車の組み合わせと1C4M車3両と1C8M車1組の組み合わせでは調整が異なるため、増結してからしばらくの間鵠沼工場はてんやわんやでした。
SL-5と連結した171号車を先頭とした編成。HSC-Dからのアナログ指令をSL-5側のデジタルが近似値で解釈するため、BC圧が前後で不均衡となって乗り心地はあまり褒められたものではありませんでした。
 

SL-5との混結
 特急5連化後も利用客の伸びは止まらず、いよいよ6連化の検討も必要となりました。この頃になるとさすがに省エネルギーの要求も強くなり、SLシリーズもSCシリーズのように回生ブレーキを装備した車両、SL-5(200形)を新造することを決めました。SL-5の解説は別項に譲りますが、そのなかで1編成だけ、SL-4との混結が発生しました。SL-5は界磁チョッパ制御で回生ブレーキ装備、ブレーキは電気指令式MBS-Rです。対するSL-4は抵抗制御のHSC-D。しかも6連を組むということは、1C8M車と1C4M車の組み合わせになります。とりあえずSC-5に暫定的なブレーキ読み替え装置を装備し、両車の電気ブレーキは切るという対策で営業運転を開始しましたが、SL-4が先頭になるとブレーキ圧がなかなか同期せず、運転士もブレーキを緩めたり締めたり微妙な調整が必要でした。乗務員の間からは「これではストリームライナーではなくてストレスライナーだ」とこぼされる始末。御乗客の皮肉癖が乗務員にまで伝染してしまいました。
 この暫定編成はとにかく乗務員に嫌われたため、1年後には解消。また夏場に地下鉄線内で冷房が使えなくなるSL-4は旅客からの評判もいまいちなので、SL-5(後にSL-6)を量産してSL-4は地上運用に降ろすこととなりました。
 ところで、1980年の組み替えで166と162の2両が余剰となりました。この2両はMGを装備していないために、運用に就かせるならどこかからMG装備車を持ってきて連結しなくてはなりません。ストリームラインとしても貴重な冷房車を遊ばせておくわけにもいかないため、鵠沼車庫で保留車となっていたSL-2にMGを吊ってHSCに改造の上、寒川ローカルや小磯線に投入。支線区にもやっと冷房の恩恵が受けられるようになりました。

こちらは小磯線を走る166+04形。旧型車しか運用されなかった小磯線に冷房車登場! と沿線は沸き立ちましたが、夏季の増発ダイヤになると電圧降下が激しくて肝心の夏場に冷房が使えないという悲しい一幕もありました。


SL-4は1両単位(1C8M車は2両単位)で自在に編成替えができたため、輸送力の増加に伴った編成替えが頻繁に行われ、場合によっては編成を組み替えて余った車両を他形式と連結することもしばしば行われました。画像は700形との連結。ブレーキ方式はHSCで揃ってはいますが、応荷重装置が700形にはついていないため、SL-4には応荷重装置停止措置と限流値290アンペア固定措置がとられています。

ラッシュ時専用車に…そして廃車に
 SL-5の量産によりSL-4は6連4本+5連1本に組み替えられ、1C4M車を中心に11両がまずは地上用にコンバートされます。地上用となってからは朝夕ラッシュ時の平塚〜井土ケ谷間の急行などに使われ、乗り心地はともかく地下区間で冷房が使えないというハンデは解消され、旅客の評判も以前ほど悪くはなくなりました。元特急車だけあって急ごしらえの700形などよりは座席や空調面でアドバンスがあったため、しばらくはラッシュ専用車として重宝されました。また、1986年に800形、1988年にはSL-6が登場したため編成に余裕が生じたことから、中間に封じ込められた先頭車両と制御器を再利用して820形が10両作られました。ただ、SL-4の先頭車は1C4M車しかないため、1C8Mユニットの中間車に1C4M車の運転台機器を移設する工事を行った(電気を食う1C4M車を存続させる理由はありません)ため、この段階で一気に19両(145+146のユニットは元から片方運転台がついているため)もなくなった計算になります。
 1990年には6連3本+3連の21両まで減少したSL-4は、さらに2000年にSL-7(300形)が投入されると、ところてん式にSL-5がラッシュ専用車にコンバートされたことで全車両が引退してしまいました。現在は8201号車からの前面を流用した移動機械SX-1と、SL-6のボディとSL-4の機器を組み合わせた820形の走りに面影をとどめているに過ぎません。

SL-4の面影を唯一残す入換車のSX-1。電機子チョッパ制御に改造され、電車3両を引っ張って工場内の入換に活躍しています。年に1回行われる鵠沼車庫のイベントでは、ミニ列車体験としてトレーラーを牽引するなど、工場のアイドルとして活躍しています。

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