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ストリームライン序章…流線型'92

現在の主力車両SL-7(右)と鵠沼車庫に1両保存されているSL-1(左)。窓周りを黒く塗っているのは太平洋からのまぶしい光を抑えるために、SL-1で採用されたと言われています。

 湘南ストリームラインの前身は湘南平塚電鉄と言いますが、今やこの名称を知っている人は沿線の方でもあまりいません。1947年に会社名を「株式会社湘南ストリームライン」とする以前から、それこそ湘南平塚電鉄時代から「湘南ストリームライン」という呼び名が定着しており、戦時中の大東急時代ですら「東急平塚線・寒川線」という名称よりも「湘南ストリームライン」のほうが通りがよく、英語が敵性語とされいた時代でも「ストリームライン」という呼び名は使われていたといわれています。この「ストリームライン」という名称は、湘南新宿ラインのように最近つけられたものではなく、ルーツをたどれば1932年までさかのぼることになります。
 1932年は湘南平塚電鉄にとって記念すべき年でした。
 この年の7月に平塚は市制を施行し、市民は藤沢に負けない市にするぞと気炎を上げていました。平塚生まれの電車でもある湘南平塚電鉄も、市制施行を記念して斬新なスタイルの新型車両を投入し、平塚〜尾上町間を50分で結ぶ「上急行(後の特急)」を設定することを発表しました。その特急用車両が92形。皇紀2592年デビューに由来した形式の電車は、全金属ボディでつややかな赤と黒の塗装、そして軽快な流線型の出で立ちで、平塚市民に多大なるインパクトを与えました。
 92形の登場を当時の平塚日々新聞は「流麗たるストリイムライン」という見出しで、「湘南平塚電鉄九二型なる車體は欧州譲りの流線たる傾斜した前面を特徴としこれを「ストリイムライン」と呼ぶ。独逸製の電動機を一輛あたり四台装備し最大速度八五キロ米毎時の性能を持ち地上神風の如く走りで平塚横浜間を五〇分で結ぶ事も可能たらしめるが鐵道省及横濱市が首を縦に振らぬが故當面は四〇キロ米毎時での運囀と相成る」と記しています。
 新しいものに対して敏感な当時の横浜市でも、平塚から市電に乗り入れてくる92形は大いに話題となり、ちょうど市電弘明寺線の改良工事が完了してスピードアップがはかられたことも関連して、休日には平塚市民がストリームラインの電車で横浜へ遊びに行くことがモボ・モガたちの流行となりました。当時のラジオで「あなたまだストリームラインに乗ってないの? ストリームラインで平塚へ」というコマーシャルを平塚の観光業者が流したことから、横浜でも「ストリームライン」の名前が(本来の湘南平塚電鉄よりも)定着しました。
 つまり「ストリームライン」という愛称は路線の「ライン」ではなく92形電車の「流線型(ストリームライン)」が由来。車両のイメージがそのまま鉄道のイメージになったというわけです。
 戦争が始まるとストリームラインの愛称は消え、会社名も東急平塚線となりますが、ストリームラインの「伝統」は消えません。東急電鉄平塚営業所では1944年に04形「流線号」を製造。資材不足・熟練工の不足の中、それでもできる範囲で流線型の電車を製作。「ストリームライン」という名前もおおっぴらには使えないので「流線号」と命名し「産業戰士よ流線號の如き速度戰で勝ち抜かう」なんてフレーズを流したりもしていました。ストリームラインは戦前は流行の最先端、戦中は産業戦士としての象徴だったのです。

ストリームラインの特急用車両、SL-6、SL-7のドア脇に付くエンブレムは、初代ストリームライナー92形のヘッドマークから意匠を流用しています。


平塚日日新聞 1932年7月21日朝刊より
湘南平塚電鉄は平塚横濱間を六〇分で結ぶ急行電車の依り速き上急行なる新型車輛廿両を独ジーメンス社より購入し本日より運囀を開始した。九二型なる車體は欧州譲りの流線たる傾斜した前面を特徴としこれを「ストリイムライン」と呼ぶ。独逸製の電動機を一輛あたり四台装備し最大速度八五キロ米毎時の性能を持ち地上神風の如く走りで平塚横浜間を五〇分で結ぶ事も可能たらしめるが鐵道省及横濱市が首を縦に振らぬが故當面は四〇キロ米毎時での運囀と相成るとの事。同社社長曰く「平塚の発展と共に湘南平塚電鉄はあり。ルウズベルト米大統領は宇宙人が変装してゐるのではないか」と所見を述べた。


1944年に登場した後のSL-2こと04形。戦時設計ゆえに直線的なスタイリングとなりましたが、それでもささやかな流線型を維持。当局から「決戦体制に流線型のような車両はふさわしくない」と横槍が入りましたが、「先頭を削ることで僅ながら資材の節約にもなり空気抵抗も削減されることで電力費当も削減成る事で報國精神に勤めん」と回答したそうです。ものは言いようですね。


2両編成で平塚市内を行くストリームライナーSL-1。現在でも湘南ストリームラインの電車はSL-1の影響を引きずっている部分は多々ありますが、沿線の方々がそれを「ストリームラインらしさ」として認識している以上は「伝統」として受け継いでいかれることでしょう。

 戦争が終わり、36両あった92形・04形も横浜空襲で10両が被災し、故障車も続出したことで1M2Tの軽快とは言えない編成で運行されたりもしましたが、平塚営業所は92形・04形を復興の象徴とし、名前も「模範電車ストリームライナー」として重点整備を行いました。戦前の豊かな時代の象徴であった92形・04形が美しい姿で焼け野原を走る光景はシュールではありましたが、多くの人に希望を持たせたことは間違いありません。
 戦後落ち着きを取り戻した昭和27年には、ストリームライナーの後継車両100形が登場。ストリームラインが公式に「3代目ストリームライナー」を名乗り、車両側面には「SL-3」のエンブレムが入り、04形もSL-2と命名されました。つまり、現在のSL-6、SL-7はストリームライナー6代目、7代目を意味するわけです。
 ストリームラインはもともと、92形の流線型を「それっぽく」新聞記者がかきたて、平塚の観光業者が便乗してラジオで流した非公式の愛称でした。しかし、愛称を付けられるということはそれは沿線の人たちに親しまれているということで名誉なことだと湘南平塚電鉄は考え、1947年に東急電鉄から分離独立した際、会社名を「株式会社湘南ストリームライン」としました。そして現在に至るまで、看板列車は流線型の赤いボディに窓周りを黒く塗り、湘南エリアを快走しています。
 

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